
沖縄県民に愛される老舗ローカルスーパーマーケット<Jimmy's>のパイやケーキが伝える、戦後沖縄史
1956年創業の<Jimmy's>(以下、ジミー)は、沖縄県内に18店を展開するローカルスーパーマーケット。一部店舗はグロサリーやレストランも併設する。そのアップルパイやジャーマンケーキの味、レストランでの食事は、祝い事などを通じ、県民の思い出と深く結びつく。そんなジミーの歴史から見えてきたのは、いくさ世(ユー)、アメリカ世、ヤマト世と遷ってきた戦後沖縄史そのもの。1号店である大山店で稲嶺盛一郎社長に話を伺った。
photo: G-KEN / text: Katsuyuki Mieda
いくさ世からアメリカ世へ
<ジミー>の創業者は稲嶺盛一郎社長の父・盛保(せいほう)さん(1930~2012)。首里の出身で、沖縄戦中はぎりぎり学徒動員は免れ、やんばるで疎開生活を送る。終戦時は15歳。兄二人が戦死し、家計を支えるため学業には戻らず、米軍基地で軍雇用員となる。
「食器洗いからバーテンダー、運転手など何でもやったようです。英語もすぐに耳で覚えて使えるようになって。その時にアメリカ兵に付けてもらったニックネームが“ジミー”。創業者は日系人?アメリカ資本?とよく聞かれますが、そうではありません。このニックネームを店名にしたのです」と稲嶺社長。
当時はアメリカがもっとも輝いていた時代。盛保さんはメスホール(軍の食堂)でも働いたので、アメリカの豊かな食文化を目の当たりにし憧れる。片や沖縄の人々はテント暮らしで、戦争中から食うや食わずの生活。「この豊かな食文化を沖縄の人にも味わってもらいたい」。その想いが<ジミー>創業へと繋がる。
「基地内でティーンエイジャーの父をかわいがってくれたのが、ハワイの日系人たちでした。英語も日本語も話せる彼らから教わった文化や知恵が父のベースになっています」
その後、盛保さんは洗車サービスをしたり、食肉卸会社や商社に勤務しながら独立・起業準備を進める。そして軍用1号線(現国道58号線)沿い、今の大山店の道向かい付近に小さなマチャーグヮー(雑貨店)<ジミーグロセリー>をオープン。創業年の1956年は会社組織になった年だが、その数年前(不詳)のこのマチャーグヮーの開業が、<ジミー>の出発点だ。
「資本がなく、地元の卸業者から仕入れた商品を売るだけでしたが、物資のない時代だったのでよく売れました。米軍統治下ですから日本製品はなく、商品はすべてアメリカ製品です」
エゴーマヨネーズ、A1ステーキソース、ワシミルク(コンデンスミルク)、キャンベルスープなどが沖縄で親しまれているのは、この時代の名残だ。
マチャーグヮーからベーカリーへ
しばらくして<ジミーグロセリー>は店内でパンやケーキを製造販売するようになる。
「商社勤務時代に小麦粉を卸していたドイツ人夫妻のベーカリーがあり、その店頭で嗅いだパンを焼く匂いがヒントになったようです」
これが大人気となり、店名も<ジミーベーカリー>に変更。パンやケーキの製造販売に力を入れ、店舗も現在の大山店の地へ遷る。
当初製造方法を教えたのは、故郷でパン職人やケーキ職人だった米軍人たち。メニューやレシピも彼らの故郷の味だ。<ジミー>の代名詞であるアップルパイやジャーマンケーキもこうして誕生した。ジャーマンケーキとは、ココナッツフィリングを上に塗ったチョコスポンジケーキ。その名前は、19世紀にアメリカ人のサミュエル・ジャーマンが開発したケーキ用チョコレートに由来する。1957年、このチョコレートを使って一人の主婦が考案したケーキのレシピがアメリカで人気に。これがジャーマンケーキと呼ばれ、米軍経由で沖縄に伝わった。
1954年生まれの稲嶺社長が当時を振り返る。
「僕が子どもの頃は、この大山店の周囲は「外人住宅」(米軍人や軍属の居住用に沖縄の民間業者が造成建築した平屋コンクリート住宅)がたくさんあり、そこに住む外国人やハワイ日系人の子どもたちと一緒にバスケをしたり、家に行ってケーキを食べたりしていました。米軍基地の多い中部では、毎日の生活の中で自然と国際交流があったのです」
人気パンのスウィートブレッド、デリの定番のスペアリブ、ガーリックチキンなどは、そんな暮らしの中で教えられたものだ。
アメリカ世からヤマト世へ
1972年、沖縄は日本に復帰し、通貨はドルから円に替わった。軍用1号線は国道58号線に大改修され、盛保氏はこれを機に店舗の建て替えを決断。コンクリートにペンキを塗った店を現在の赤レンガ様式に変えた。赤レンガは赤瓦を焼く地元業者に特注した沖縄産だ。
「チャンプルーの発想です」と稲嶺社長。異文化を積極的に取り入れ、混ぜ合わせる(チャンプルー)ことで、独自の文化を創り上げる。この言葉は、沖縄の伝統的精神であり、ジミーの歩みにも通底していると思う。
来る沖縄のモータリゼーションも見越し、広い駐車場も備えた大山店は76年にオープン。82年には同じスタイルにレストランも併設した那覇店が開業。盛保さんは会長になり、盛一郎さんが社長に就任したのもこの年だ。以降、<ジミー>は沖縄各地に出店していく。
「グロサリー、ベーカリー、レストランが一体の店というのは、米軍基地時代から父の頭にありました。それを時代の変化に対応しながら、順に実現していったのだと思います」
また父子はハワイはじめ、アメリカ、オーストラリア、ヨーロッパ、アジアなど海外へも積極的に視察に出かけた。そして現地の最新システムやサービス、機械を導入。各国の料理人を沖縄に招いてレシピも取り入れた。そうして生まれたのが、クッキーマシンで量産できるスーパークッキーや、レストランでいち早く採用したビュッフェランチなど。NCRのPOSシステムの導入も81年。沖縄で最初だった。
「日本復帰後も日本本土からではなく、海外から直接アイデアを取り入れたのは、父の外国文化への憧れが強かったからでしょう。沖縄人は元々海洋民族で、昔から海外と交易してきました。その血なのかもしれません」
沖縄県民に愛される理由
現在の店舗数は18店を数え、2026年には創業70周年を迎える<ジミー>。アップルパイやジャーマンケーキをはじめとする商品は、沖縄のお祝い事や贈答品の定番となり、県民の想い出の中に溶け込んでいる。今やサーターアンダギーやムーチーなどと並ぶ、もう一つの沖縄のソウルスイーツといえる存在だ。グロサリーで毎日買い物する人、ビュッフェを毎日利用する人も多い。記念日には3世代や4世代の家族がそろってディナーに訪れる。なぜ<ジミー>はこれほど沖縄県民に愛されているのだろう?
「古いからですよ(笑)」と稲嶺社長は謙遜しつつ、こう続けた。
「アップルパイもジャーマンケーキも当時の米軍内のシェフたちから習ったもので、当時は他にもいろんなところが作っていました。ただうちは早いうちに始めたこと、長く続けたことで残った。周囲が変わり続ける中、うちは変わらなかったのが良かったのかもしれません」
一方、見た目は同じでも中身は時代に合わせて変わっている。アップルパイの原料のリンゴも小麦粉も今は国内産。また紅芋やニンジン、イチゴ、ラム酒など、地産地消の考えから沖縄県産の素材を使うことにも積極的だ。ガーリックチキンの鶏肉もやんばる産に変えた。「それだけ沖縄の素材が技術的にも向上し、品質が良くなってきたということです」(稲嶺社長)。
また意外にもデリカでは、てびちや中味汁(なかみじる)、田芋(ターンム)でんがくなど、沖縄の伝統食も人気だ。
「これらは沖縄の行事には欠かせません。沖縄の食文化にどれだけ貢献し、豊かにできるかが創業からの想いなので、沖縄の人々のニーズに応えた商品も提供しています。これもチャンプルー文化なのかもしれません」
アメリカ世の名残を伝える<ジミー>。しかしその奥に流れるのは、遙かなウチナー世から続く沖縄への想いだ。きっとそれがあるから、沖縄県民に長く愛されているのだろう。
ジミー
電話:フリーダイヤル 0120-012-575(平日9:00~17:00)
HP:https://jimmys.co.jp
オンラインショップ:https://shop.jimmys.jp
ジミー大山店
住所:沖縄県宜野湾市大山2-22-5
電話:098-897-3118
営:9:00~21:00
休:年中無休
アイランドグリル大山
住所:大山店併設
電話:098-942-8444(レストラン予約専用)
営:ランチ 11:00~15:30(LO 14:30)、ディナー 17:30~21:00(LO 20:15)
休:旧盆、12/31、1/1
ビュッフェ料金(120分制、ランチ・ディナー共通):
平日/大人(中学生以上)2,000円、子ども(小学生)1,000円、幼児(4~6歳)650円
土日祝/大人(中学生以上)2,300円、子ども(小学生)1,200円、幼児(4~6歳)800円
◎他に、那覇店(アイランドグリル併設)、空港店などあり。
店舗情報:https://jimmys.co.jp/shop/
他の記事はこちら